「映像で残したいニッポンの家」
おうちMovie
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生活普段議 
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第37号   溝部 公寛さん  「たぶん、突き詰めれば水。」
 寛建築工房の溝部さんをお訪ねしました。
木のぬくもりに囲まれたオフィスでの陽気であたたかい溝部さんのお話は、曲がったキュウリ、割れた花瓶、そしてネクタイ...その共通項は。
溝部 公寛(みぞべ きみひろ)

神奈川県出身
1964年 神奈川県生まれ
1986年 明治大学工学部建築学科卒業 
1986年 奥野建設設計事務所入所
1995年 寛建設工房設立 設計・施工・木材供給を一貫して行う「寛ぎの家」シリーズを手がける

寛建設工房のホームページ
http://www.kuturoginoie.com
今回のモノ
 
●豊かさを求めて豊かさを失う



溝部:
これは新聞の記事なんですが、グリーンランドの「地球最北端の村」に30年以上暮らしている日本人の方の話なんです。
あえて日本を離れて氷上の生活を選ぶのって、相当強靭な精神力が必要だと思うんですよ。でもこの大島さんはその精神的な強さによって”自由”というものを得ている。これは強いですよ。
鄭:
ここにはなかなか至れないですよね。
溝部:
この記事の大島さんの言葉ですけど、「買うとよけいなことをしなくてはならない、自分の時間が消えて行く、まるで何かに操られているみたいだ。」そうか・・・、僕らは操られてるな、と。豊かになるために色んなものを買いたい、そのためにお金が欲しいと考えて暮らしているけど、実はモノをいっぱい持つことで、いろんな足枷をよけいに得てしまっている。そうやって僕らはものすごく縛られている気がする。お金に縛られているのか、時間に縛られているのか。
もちろんお金があって経済は成り立っているわけだし、また経済活動の活性化の為に流行とかトレンドが作られてる訳だけど、なんていうか、それに目を向けすぎたり捕われすぎると、見失うものがある気がするんだよね。
鄭:
精神的な部分ですか?
溝部:
本来幸せというのは、ゆとりとか豊かさを感じながら生きる事
だったはずなのに、今はお金を得ることがあたかも幸せなんだという風潮でしょう。で、稼いだお金で、便利さを手に入れようとしたり、ブランド品を着れないくらい買ったりしてるけど、お金を稼ぐ為に精神的な負荷をかけられていたりする。何のために働いているのか、何を求めているのか、っていうことがものすごく見えにくくなってしまってる。
鄭:
本質的な豊かさと、お金の必要な経済活動は別物であるのに、後者に重きを置きすぎている嫌いがあると。
溝部:
そう、まさにその通り。例えばね、工場をいっぱい建てて、生活を豊かにするモノを作ってるはずでしょ。でもその工場のせいで土壌が汚染されたりして、昔ほどどこでも水が飲めなくなったよね。今はどこから何が混入するかわからないからって。そうなってくると、豊かさとはなんなのか、工場で作られたモノと水のどっちが豊かなのか。たぶん突き詰めれば水なんだよね。もっとシンプルに言うと、ほんとにおいしいものって、もぎたてのトマトに塩だけだったりすると思うんですよ。そうやって食べるトマトと、最高級のレストランで緊張しまくりながら食べるフランス料理と、どっちがおいしいのか?人間のつけた価値というのはそれに酔っているだけであって、本質的な部分ではないかもしれない。元々生活に必要なものっていうのはお金ではないというのが僕の考え。
鄭:
豊かさを求めて豊かさを失うと。
溝部:
まぁ、実際には水やトマトだけでは経済が回らないから、そこらへんのバランスはものすごく必要。豊かさの本質と、経済活動と環境。モノをただ消費してお金を生み出すだけの「モノづくり」では基本的な部分がおかしくなるんだろうな。
鄭:
それは感じますね。家を造っていても、お客さんの言うことは確かにわかるんだけど、それでほんとうに豊かになるのかということありますものね。
●規格外の魚の行方
溝部:
ちょうどこのあいだ、テレビで「もったいない食堂」ってのを見たんです。熊本にあるお惣菜とかも扱っている家庭料理屋さんなんだけど、成り立ちが面白いんですよ。
効率を優先させすぎた経済活動が見捨てた野菜や魚、つまり規格外の商品を、本質は変わらないのだからもったいないって食材として使っている。考えさせられましたね。
鄭:
魚にも規格があるんですか。
溝部:
そう、今は農業も漁業も基本的に工場生産に近いような方法でやっているらしい。規格にはまらないものは全くお金にならない。魚も大きすぎるのもだめ、小さいのも当然だめ。あと、種類の少ないやつも基本的には廃棄されているんだって。網をかけるといろんな魚とれちゃうじゃないですか。何百種類もとれるなかで、市場に出せる魚って50種類くらいしかないらしいんですよ。農業でも、畑で作っているきゅうりには曲がっているのもあるし、人参もこぶ付きのやつとかができて当たり前じゃないですか。ところがL玉とかM玉とか規格のサイズに合わないものは、値段も付かなくて、消費者に届かずに途中で抹殺されている。ぼくはこれはナンセンスだと思った。
鄭:
確かにもったいない。規格があるというのは、流通とか品質の安定とかの理屈もあるんでしょうけどね。
溝部:
箱詰めもしやすいしね。でも、ただ食べるということの本質を考えれば、別に曲がっていたって関係ない。価値は変わらないはず。本質は同じなんだし、何が違うかというと何も違わない訳だから。この「もったいない食堂」では農漁業の人と直接提携してそういう食材を仕入れて、消費者に届けていこうとしている。確かに実際に食べるのは規格も流通も関係ない一人の消費者なんだよね。そこを忘れていたという感じがした。
しかももうひとつ面白いのが、これを外食産業出の方がやってるということ。外食産業が価格競争のせいで大規模流通や輸入食材に頼りすぎると、日本の小規模な生産者はいなくなってしまうと考えたかららしい。
鄭:
輸入食材にシフトしていく事はつまり、日本自体が自給する力を失っていくことを意味しますからね。



溝部:
そう、だから商品にならない商品でも、それはそれで全然いい。本質は一緒で、機能も満たしているならね。あの、入り口に置いてある焼き物みたいなのあるでしょ。あれ、実は口のところが割れてるの。新婚旅行の時に下田の方に行ったんですよ。その帰りに通った修善寺の山に窯があって、見せてもらったんです。そこの窯の奥さんから、「新婚旅行で来られているということで、プレゼントしますよ」って頂いたんです。割れてるけどくっついているでしょ。いつまでも仲良くって言うような意味合いでくれたんだけど、たとえ商品にならないようなものでもちゃんと用は足していて、ああやって花瓶としても使える。さっきの曲がったキュウリと一緒だよね。市場性はなくてもかえって味があって面白い。僕はそれでいいんだと思う。
●建築業界のオカシなところ
鄭:
建築業界にも似たような事を感じる時はありますか?
溝部:
そうですね。なんで公共とか第3セクターの建物なんかが原価消却もしないで何年かで壊されちゃうのか?その仕掛けをちゃんとわかっている人は少ないと思うんだ。あれは何百億のプロジェクトをその時に作り出すことがその役割であって、元取らなくてもいいんだよね。その時にゼネコンとかが大きい仕事を受注できて、大きなお金を動すためのネタ作りなの。事業の実態はさほど関係ない。でも一方でそのでかいものにステータスを感じながら僕らの業界は乗っちゃってる訳でしょ。
鄭:
経済活動のおかしなところに加担するところはありますよね。建築は、どうしても・・・。
溝部:
やりたいからね。
鄭:
心の奥ではこんなことやっていいのか、って思うようなことでもやっちゃう。
溝部:
「やりたい」っていう表現になっちゃってるんだよね。やる必要性があるかどうかっていうと、ないんだよ、よく考えてみると。
特に構造なんて解析技術が進んで、別に必要性の無いものまで造形として作れるようになったでしょう。そうなってくると造形を追求していくことに酔ってきて、遊びみたいな空間になっていく。でもそれもまたその本質ではない。本質はもっと地味なんだろう。新鮮な野菜がうまいとかそういう地味なことなんじゃないかなって僕は思うんですよ。建築家は著名になろうとして大きいもの、モニュメンタルなものを設計するんだよね。設計料も多くなるし。だから地味な住宅というのはすごくナンセンスだと思う。でも僕はだからこそやっている。基本的に住宅をやろうとすると成功しないですよ。でも成功しないのはわかっていながらやるのは結構本質に根ざしているというか・・・。
人間ていうのは基本的には裸で外で寝れない弱い生き物でしょ。だから寒さをしのいだり、家族で団らんして食事をとったりする生活の場としてスペースが必要で、言わば鳥の巣みたいなものだと僕は思っている。それが住宅の本質だとね。それを創っていくのが一番人間らしい。だから、皆がそういうことをしっかりやりだすと、個人の顔が見えてきて、色んな意味で本質的な話ができると思っているんだけど。
鄭:
住宅建築家、溝部さんの原点ですね。
溝部:
でも若い建築家とかは、住宅にしたって結局狭小とか変形地とかにこんなものを建てましたと、本質ではない方向にむかっていってて、冷静に見るとちょっと滑稽になっちゃってると思うんですよ
鄭:
それもこれも、日本は飽和してるからだと思いますね。経済がこれからも1パーセント2パーセントと成長をし続けても我々は何を得られるのか?今の生活から10パーセント増えても、得られるものって何も増えないですよね。
溝部:
ただ踊らされているだけで、飽和しちゃってる。これ以上ほんとに何もいらない。むしろ整理されていく方が必要となっている。
鄭:
そういう意味での成長、満たしていくってことに関する成長はすでに無理な領域に入ってきている感じがある。足りないものをなんとか埋めていってあるレベルまで持っていこうっていう、例えば今の中国みたいな成長はもうしていない。ここから成長しようとしてもどうしても付加価値であるとか、嗜好品であるとか、テレビのインチ数がいくら大きくなったとか、どれだけ薄くなったとか、そういう話ばっかりなんですよね。
溝部:
建築もそうだけど、テクニックに酔ってるだけ。テレビの厚みを1cm薄くしたからって、それで格段に生活が変わる訳でもないのにそういう細かいレベルのことを盛んにやっている。
鄭:
まぁ、テレビが薄くなれば部屋が少し広くなる、っていう豊かさもあるのかもしれないですけどね(笑)。
溝部:
広さというと昔は、「この国でそこそこちゃんとまともに働いてると戸建て住宅を持てますよ」っていうのが一つの指標だったんだよね。でも今はマンションて容積率の変更で住戸数をコントロールできるから、「戸建ての住宅は成功者じゃなきゃ都内では買えないですよ。でもマンションがあるから大丈夫」っていう話にみごとにすり替わったんですよ。
昔の土地区画って広いですよね、それを今は2等分、3等分にして売りますよね。多分今も昔も買っている人達の職柄とかそういうものは変わっていないんですよ。でも20年か30年すると半分の家になるんです。だからあと20年か30年するとどうなっちゃうのかな。
鄭:
都心に行くと、ほんとにその2〜30年後のサイズになってますからね。驚くようなサイズに刻まれていますよ。
溝部:
そうするとあと何十年後かには、もしかしたら本当に全くスタンダードはマンションで、土地が付いている家を建てるのはちょっと郊外とか、相当田舎に行かないとできないっていう社会になっているんじゃないかなって。そしたら僕、仕事無くて困りますね。(笑)
鄭:
住宅建築家は地方に、みたいな。
●「ネクタイに縛られた」時代の変革
溝部:
時代ということで話すとね、今僕らを取り巻く環境が、非常に変わってきていて、建築家自体のやる活動内容も画一的なものだけじゃなくて、いろんなアプローチを誰もがやれるような形になってきている。それ自体ものすごく面白くなってきているのかなと思うんですよ。
鄭:
価値観も含めて変わってきてるのかなと感じるところはありますね
溝部:
前時代の、建築の人達にとっては雑誌デビューが王道で、いわゆる作家建築家というのが一つの軸となってた。みんながそれを目指していたわけですよ。
鄭:
雑誌に掲載されることがまず入り口だと。一種の規格化ですね。
溝部:
今は建築家の活動と一言でいってもすごく多様化していて、逆にいうと自由度が増していていいのではないかなってね。それは20世紀というものはある程度消化されてきていて、これからは我々の新しい時代を思考して行く中で、いろんな方向の活動を自由に考えて選択できるようになってきたと思うんです。
サラリーマンにしたって、必ずネクタイを締めて会社に行くというのが一つの規範だった。誰もがおかしいんじゃないかと心の中では思っていても、それが当たり前だと思い込まされて、その枠内でずーっと生きてきたようなところがある。
鄭:
戦後の高度経済成長期は特にそういう部分は大きかったでしょうね。そしてそれを未だに引きずっている。よく考えたら僕らはネクタイの意味も起源もよくわかっていないですからね。
溝部:
そう、基本的にコレはこういうもんだと、他に目を向けさせてもらえなかったというか。だけどなんとなく緩くなってきましたよね。クールビズだとかって言い出すと、急に国全体がネクタイを外そうとかって。この一言ってなかなか言えそうで言えなかったことなのではないか。
鄭:
常識を覆すのはそう簡単じゃないですよ。
溝部:
建築家のスタイルもそういうものだったと思う。今から見ると滑稽なんだけど、スタイルがものすごく定まっていた気がする。スタンドカラーで・・・。
鄭:
写真も少し斜に構えてたり(笑)。
溝部:
モノクロとかで、ちょっとすかした感じで・・・(笑)。だけど最近は逆にそれは格好悪いとか、そういう側面が出てきていて、いろんなところでいろんなことが見直された。価値観が違ってくるのを認め合える社会になってきたと僕は思うんです。例えば煙草を吸っているのがかっこいいというのも一つのスタイル、ステータスだった。いまはそれが健康によくないと、ある意味昔だったら少々格好悪いと思われた理由でも、きちっと言う人が出てきて、じゃ、そうしましょうと認められる。ありとあらゆるところでそういった動きが見える。僕らは面白い時代に建築の活動ができるんですよね。もうちょっと前だったら、一方向だけを見せられすぎていて、僕らの目指す目標も有名建築家になる為の登竜門を普通のハードルとして超えていこうとする。でもそれを目指す途中でふるいにかけられるみたいな、そういうことだった。今はそうではない。
鄭:
そういう構造がなくなってしまったんですね。規格外でもそういうあり方を認めてもらえる。
溝部:
建築家っていうのは、文化人っていうか、おそらくその社会に対して問題提起できる立場にあると思うんですよ。
だから僕はあんまり既存メディアとか雑誌に載って名を挙げて、ちょっと前の人が作った賞とかをとって・・・、だけじゃない。自分の足で歩いて自分の頭で考えたことを自分に偽りなく実行しながら、ちょっとグローバルな視点で色んなことをやっていきたい。それができる時代性なんだからがんばりましょうみたいな。
僕らがこの時代を生きていられるのは、先人達の多大な功績があってこそ。その環境を受け継ぎ、少しでもいい形で受け渡す義務がある。今の時代に僕らが生きる意味みたいなものを全うしながら、自分自身も幸福を感じられる社会。それは農業であれ漁業であれ建築家であれ、ありとあらゆる人たちが本来目指すべき社会なんだと思う。
実際には豊かに見えても実はおかしくて、それ自体が豊かにする方向に動いていないみたいなことがやっぱりあるって気がする。豊かさの本質みたいな部分で、僕としては自身が考えることを、自身が全うしていくということで、この仕事をやり続けていきたいと。なるべく変な色気を出さずにいきたい、という風に思いますね。



今回の溝部さんのお話は建築のみならず、世の中の多くのことに共通する精神です。
見えない何かに惑わされず、物事の本質を見極めるとき、人は初めて自由になれるのかもしれないと思いました。
均衡を保ちつつ自分がしっかりと地に足を付けられるように、地味でシンプルだけど強い信念を培って行きたいです。


聞き手:鄭、浅野(生活普段議 www.cabbage-net.com/seikatsu/
クレジットのない写真はすべてキャベッジ・ネット撮影
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